【アドリア海の真珠】クロアチアのドゥブロブニク旧市街の美しさの秘密を解説

 

ドゥブロブニクとは

ドゥブロブニクは、クロアチアダルマチア地方の最南端部に位置する都市であり、アドリア海に面しています。城壁にぐるりと囲まれた中に旧市街地があり、その美しさから「アドリア海の真珠」と称され、国内外から多くの観光客が訪れています。さらに、1979年には貴重な歴史と建造物が認められ、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。

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その後、1990年代に入ると、ユーゴスラビア内戦により、街の大部分が砲撃により損壊し、一時は危機遺産に指定されました。街の包囲は7ヶ月にもわたって続き、多くの人々が犠牲となりましたが、紛争終了後は、ユネスコ監修の元、破壊された建物を忠実に再現し、かつての美しい姿が取り戻されました。

 

point

現在は、ドゥブロブニクを始めとしてクロアチア国内の情勢は落ち着いているので、問題なく旅行が楽しめます。筆者が行ったのは2019年ですが、実際にこれといった治安の悪さは感じませんでした。

 

ドゥブロブニクの歴史

ドゥブロブニクの周辺は、7世紀頃までローマの植民地でしたが、侵入してきたスラブ人の攻撃を受けて周辺の街は壊滅し、海に突き出た小さい半島に逃げ込みました。これがドゥブロブニクの誕生だと言われています。

 

この街は常に侵略される危険にさらされていたため、周囲を巨大な塀で囲み、街ごと要塞化しました。住民は、イタリア語で「潟」という意味のラクーザ人と呼ばれ、徐々に町は発展・拡大していきました。そして、12世紀頃になると、かつての敵であったラクーザ人とスラブ人の関係も改善されて、街はほぼ現在のような形になりました。

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中世になると、アドリア海の入り口付近に位置しているドゥブロブニクは、地中海貿易の交通の要衝として大きく発展を遂げました。そして、14世紀に成立し、この地を治めたラクーザ共和国は、15~16世紀にかけて最盛期を迎え、ヴェネツィア共和国、ピサ共和国、ジェノヴァ共和国など他の海洋国家と同等レベルの力を付けました。

 

その証拠に、ドゥブロブニクの教会には、当時法外なほど高値で取引された聖遺物(イエス・キリストや、その聖人にまつわる遺品)が何点も奉納されています。さらに、各地から貿易により集められた金銀財宝も大量に保有しており、莫大な富と権力を持っていたことがわかります。

ドゥブロブニクの落日

ここまで大繁栄を遂げたドゥブロブニクですが、1677年に起こった歴史的な大地震により、市内の殆どの建物が損壊し、犠牲者も数多く出ました。さらに、地中海貿易の不振も重なり、かつてヴェネツィア共和国と肩を並べる程であったラクーザ共和国は、凋落の一途を辿ることになりました。

 

そして、1806年、ナポレオン軍の侵攻を受けて、ラクーザ共和国の都市は次々に陥落し、ドゥブロブニクも1ヶ月間にわたる包囲の末、フランスの手に落ちました。

 

ドゥブロブニクの歴史まとめ

・戦乱から逃れてラクーザ人が移り住んだのがドゥブロブニクの起源

・民族間の融和後、この地を治めたラクーザ共和国は地中海貿易で大繁栄する

・大地震と貿易不振で街は衰退し、1806年にラクーザ共和国は滅亡

 

難攻不落の要塞都市

ドゥブロブニクは、街の周囲2キロに渡って、高さ約25メートル、幅約5メートルの鉄壁の城壁に守られています。さらに、塀の一部は急勾配の崖にへばりつくようにして建設されています。そして、城内に入るための門は合計4カ所しか設置されておらず、当時から難攻不落の要塞として知られていました。

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さらに、ドゥブロブニク内にも、防衛のための小さな砦が様々な箇所にあります。

その中でも山側にあり、最も高い位置から街内全体を見渡すことが出来るのが、ミンチェタ要塞です。ここへは、ドゥブロブニク城壁一周のチケットを購入すると行くことが出来ます。急な階段を上った先にありますが、景色はとても美しいです。

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海側にも、ドゥブロブニクを守る要塞であるロヴイェナツ要塞があります。街内からは少し離れた場所にあり、有事の際はドゥブロブニク本城と互いに連携しながら防衛をしていました。

終わりなき伝染病との戦い

2021年現在、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっていますが、伝染病によって苦しめられたのはかつてのドゥブロブニクも同じでした。海洋貿易を行っていたドゥブロブニクは、地中海沿岸の多くの国家と関係を持ち、城内は多くの人々が往来していました。そのため、ハンセン病天然痘、ペストなど様々な疫病がドゥブロブニクで流行しました。

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当時、これらの病気は全く解明されていませんでしたが、人同士の密接な接触が病気を移す原因になることは経験則からある程度分かっていました。そこで、他国からドゥブロブニクに交易に訪れる際には、城外の検疫所で40日間の隔離を行い、健康であることを証明できなければ入港できませんでした。

 

この措置が始まったのは、ペストが大流行を起こした1377年のことで、世界最古の検疫であると言われています。40日間を意味するイタリア語「quaranta」から、現在の検疫を意味する英単語「quarantine」が出来上がったほど、当時としては画期的な病気の蔓延防止方法でした。

 

伝染病対策として、密を避けたり、渡航者に隔離措置を与えたりするのは、今も昔も変わらないようです。

 

起伏に富んだ町並み

上空からでは分かりにくいですが、ドゥブロブニクの街はかなり起伏に富んでいることが分かります。ドゥブロブニクは、もともと突き出した小さな半島に沿って市街地が建設されましたが、町が発展するに従って、半島と大陸の間にある浅瀬が埋め立てられました。

従って、城内の中央部が最も標高が低く、海側と陸側の城壁近くは盛り上がったような構造をしています。

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メインストリートから外れた道は、曲がりくねった狭い道が続き、階段も多いです。街を散策する際は、身軽な格好と履き慣れた靴を履いていきましょう!

 プラツァ通り

プラツァ通りは、ドゥブロブニク城内のピレ門と旧港を結ぶ全長300メートルのメインストリートです。この道は、かつては対立していたラクーザ人と、スラブ人の居住地を分ける水路でした。この民族間で昔から多くの血が流れてきましたが、13世紀頃になると和解が起こり、街を二分していた水路は埋め立てられて道になりました。

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ラクーザ共和国が、海洋進出を果たすと、貿易の中継地点として多くの人々がこの地へ押し寄せ、プラツァ通りも活気にあふれました。そして、通りの両側には貿易品などを販売する商店が多く建ち並び、現在でもお土産店や飲食店と少し形は変わりながらも、当時の賑わいが残っています。

ドゥブロブニクの行き方

空路ではドゥブロブニク国際空港から行くのが一般的です。この空港は、規模がやや小さめの空港ですが、クロアチア及びヨーロッパの主要都市であれば直行便が出ています。なお、日本からの直行便はありません。

 

空港からドゥブロブニク市街地へは、シャトルバスを使用するのが最安で、値段はおよそ50クーナ(約800円)です。

 

バスでドゥブロブニクに行く場合は、バスターミナルから旧市街地の城内までは4キロほど離れているため、こちらも路線バスかタクシーを使う必要があります。

なお、ドゥブロブニクは、クロアチアの主要都市からは離れており、バスで行くとかなり時間がかかるため、お金に余裕がある方は、飛行機で行くことをおすすめします。

 

 

 

 

 最後に本記事で登場したヴェネツィア共和国については、本記事で簡単に解説を行っているので、時間があれば是非ご覧下さい↓↓↓

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